「白洲次郎 〜占領を背負った男〜」北 康利 著


この本は白洲次郎の人生とそれにまつわる人々、果てはその期間の日本という国の動きの記録といった内容です。
簡単に白洲次郎がどういった人物かまとめるのは難しいので、生い立ちから追っていきましょう。つまり本書の内容をまとめてみます。できるかな。やってみましょう。
1902年2月17日、兵庫県武庫郡精道村に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。1914年、旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学。手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。
神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』と書かれていたそう。1919年神戸一中を卒業しケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学、専門は西洋中世史、人類学など。
このとき、教授に自信満々でレポートを提出した際に、
「残念だが評価に値しない、なぜならこれは私が教えたことを繰り返しているだけだ。私が求めているのは君のその、ちっぽけな脳みそで考えた答えだ」
と言われ衝撃を受ける。
「これこそ俺が求めていた勉学だ」と。
ちなみにこのエピソードを読んだ当時の僕(15歳)も衝撃を受けます。
ケンブリッジ大学だろうがどこだろうが関係ねえ、これは本当に真を射た話だと思い、今も変わらず、事あるごとにこの時の気持ちを繰り返し、鮮やかに思いだし、染み付いています。そうやって物事に取り組んでいます。
図書館からは後輩に向けてのメッセージも何かあれば記してほしいとのことだったのですが、あえて学生の皆さんにはこのエピソード含め、次郎が若いとき、イギリスに留学していたくだりを読み込んでほしいと思います。
出る杭になれよ、先輩として言いたいのはそれぐらいです。
1928年、父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国。
1929年、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となり、伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚。
ちなみに妻である白洲正子・著「西行花伝」は大学図書館に置いてあります。
この人も女性として初めて能の舞台に立ったり、青山二郎や小林秀夫と交流を深め、骨董・伝統芸能などについての著作多数。夫の次郎は常に変化する時代の先頭に立って戦ってきたことが関係あるのかどうか、定かではないですが、
「変わることのない日本の美しさ」というものを生涯追い続けた方です。
学生の皆さん、特に女性にはおすすめしたい作家として記しておきます。
この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得る。戦後の大宰相と呼ばれた、吉田の働きにも注目。
またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。この近衛さんとのエピソードも胸を打つものがありますが割愛。
1940年、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから(もちろん無愛想と掛け合わせた実に素敵なネーミングです)、武相荘(ぶあいそう)と名付け、疎開。
特権階級であった白洲は徴兵を回避し、農業に励む日々を送っています。
1945年、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任。
次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。らしい。
わりと有名なエピソードらしいですが、ここで重要なのは、このときの次郎の考え、
「戦争に負けただけで、奴隷になったわけではない」
というもの。戦争に負け占領下に置かれてアメリカ万歳、けっこう。全てを悪いというわけではない、卑屈になっちゃおしまいだろうという、気骨のようなものを与えてくれます。
他国に対しての意識というものはシンプルであり、同時に複雑です。
例えば、中国との関係性がいろいろと言われていますが、じゃあ国交として中国からひどい仕打ちをされたら、例えば、仲のいい中国人の友達がいたとして、途端にその人を切り捨てたりするのかと。極端に言えば自分の娘をレイプされた父親が犯人を殺すと罪になる、でもそれは果たして罪なんだろうか、と考えるのと似ています。
「例えば」なんですけど、「そんな人まわりにいないし、関係ない」ではないんです。考えてもストンと腑に落ちることもなく、答えにすんなり着陸することも難しい、けどそういう事を考えてみる、それは想像力だと言えるし、やめてはいけない、人が生きる上で捨ててはいけない財産だと考えます。
もちろん今は戦時下ではないですけど、ある意味では戦後よりひどいかもしれないと思っていて。情報が簡単に手に入れることが出来るからこそ、「選ぶ」行為も含めてですが、多種多様な出来事と結局、戦わざるを得ない状況下にあることを思い出させてくれるんです。
「八月十五日以来、日本人に面子なんてあるかっていうんだ」
という言葉も残しています。
憲法改正問題で、1946年2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。
次郎は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。
あのー、政治家ではないので難しいことは言えませんが、
そういう、細かな内容ももちろん大事ですけど、
憲法というものがどういう状況下で作られたのか、携わった人々がどんな思いで取り組んだのか、というのをもっと知られるべきとは思います。
この部分を読むだけでも価値はあるのではないかと。
1948年12月1日、商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。
汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立。
同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日本製鐵広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。次郎は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。その後、次郎と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大げんか。売却の件に関しては賛否両論なわけですが、次郎が先を見据えて動いていた人物だということが伺えます。
次郎は「俺はボランティアではない」が口癖で、英国留学時代の人脈をフルに活用し、主として英国企業の日本進出を手助けし、成功報酬として成約金額の5%をロンドンの口座に振り込ませていました。
働きに相応した報酬はきちんと受け取るべき。という部分もいいですね。
1951年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行。
外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、
急遽日本語に書き直した。
1952年11月19日から1954年12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。
1951年5月、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。
就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。
東北電力のダム、去年バイクで行ったときに見たんですがすごく綺麗でした。
東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任。
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、ゴルフに興じ、また、トヨタの新型車(ソアラ)のアドバイスなども行う。
1985年11月に、正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。
同年11月28日死去。83歳没。墓所は兵庫県三田市の心月院。
夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。
そして墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。
・・・とまあ、所々脱線しつつもまとめてみたんですが如何でしたでしょうか。
挙げてみた箇所やエピソードは、ほんの一部です。
繰り返すようですが、僕は政治の世界とは無縁の生き方をしています。
それなのになぜこの本にひかれ続けるのか、理由はうまくまとめられないのですが、これは歴史書であり(ドキュメントとも言えます)、人物評伝であり、夫婦の物語でもあります。読む時々によって自分の今の状況に合わせて、多面性をもって語りかけてくれる点に、惹かれるのかもしれません。
話として面白いということもありますが、歴史の事実、それを受けて今を生きるとはどういうことなのか、というような思いが読み返す度にむくむくと膨らみます。なにかにつけ、読み返すたびにケツを蹴り上げられるような、そんな感覚になるんです。
美談だけでまとめるわけにはいかないのでしょうが(にんげんだもの)、温故知新という言葉が浮かびます。
昔の出来事だから古い、で片付けるのではなく、戦前戦中戦後、混乱のさなかに動いていた人々は何をしたのか知り、どんな気持ちだったのかを想像する、というのも読書を通して得られるひとつの財産です。
その財産・知識を是非、色んな人たちと分け合ってください。
それも、方法としてはなるべく、直接会って話をすることです。
ネットを介しての情報共有も、もちろんツールとして役立つうちの一つですが、誰かと顔を合わせて、話すことで今まで勉強しても分からなかったことが途端に分かったりします。それこそ何十冊も本を読んでもどうしても理解できなかったことが、一人の人間と小一時間喋っただけでパッと、途端に理解できたということはままありますよね。まさに生きた情報・知識となるわけです。
だからといって、自分が今まで読み書きしてたことは無駄になるのかというとそんなことはありません。今度は違う人とも話してみましょう。
すると、自らの視点で消化したまた別のビジョンが違う誰かにも芽生えるに違いないのです。
血の通った知識はなかなかしぶといです。
騙されにくく、かつ、形を変え、吸収し、成長していきます。
それが目に見えるもの、聞こえるものとしてこの世に姿を変えて現れると、
絵や音楽アルバム、
だれが言い始めたか美術や文化と言われるものだったり、
ひょっとしたら、一生懸命に産声を上げる赤ん坊になったりするのかもしれない。
そんなふうに思うんです。
少なくとも戦争を終えた当時の人々は、これ以上悪い風が吹いてもお国の言うことだから間違いない、大丈夫だと捉える人が大多数だったとは思えません。
いつだってそうです。もちろん、今だってそうです。
歴史に名を残そうとか、国をひっくり返してやろうということとは関係ありません。
明日にも終わるかもしれない国に生きていながら、誰かを思い、何かを伝え、そのための知識を蓄える。
矛盾しているようですが、そういった行為こそが兵器や見境のない殺し合いに対抗しうる強力な武器なんだと信じています。
この本は初めて読んで以来10年に渡って、僕の心の中に本棚があるとすれば、一番手の届きやすい位置に、今も有り続けています。